使節派遣への長い試みと願望

ザビエルと義鎮が運命的な邂逅をなし、その3ヶ月後の1551年11月15日、豊後府内の沖の浜から、ザビエルと二人の日本人従者、義鎮の使者1名をのせたポルトガル船がインドを目指して出帆した。この旅立ちは「日本最初の外交使節」の出発であり、また「日本最初のローマ留学」の出発であった。
以下は「クアトロ・ラガッツイ〜天正少年使節と世界帝国〜」(若桑みどり著、集英社)より。


<日本最初の外交使節
・「ザビエルがインドに帰るとき、義鎮はインド副王に敬意を表し、彼と親交を結ぶために進物を持たせた家臣一人(「植田玄佐」といわれている)をザビエルに同行させた。このときポルトガル王ドン・ジョアン3世にも親書を託した。これは日本の大名がポルトガルの為政者、元首に対して行った最初の外交使節であり、のちに彼がわれらが少年使節を送ることになったその路線の始まりであった。」
・「義鎮はフロイスに向って「1545年ころ一人のポルトガル人が3年間わたしのところに滞在した。この外人に、ポルトガルやインドの状況や政治について、いろいろ聞いて、キリスト教の修道士の規則や行状についてもあれこれ尋ねた、そこで聞いたことがほんとうかどうか確かめるために、ザビエルがインドに帰るときに家臣を使節として随行させたのだ」と義鎮はいう。そうすると、ポルトガル王への親書をいきなり持たせたというよりも、少年時代に外国への興味が培われていて、それがザビエルを得て実現したのだということであろう。」
・「このあと(1552年9月)、キリスト教徒になって帰ってきたこの家臣(植田玄佐、受洗名「ローレンソ・ペレイラ」)から、「ポルトガル人が言っていたことは嘘ではなくむしろ控えめであった」とその盛況を確認している」

<参考><その後の、ポルトガル王・インド副王と義鎮の外交>
・1551年、義鎮、ザビエル離日時に、ポルトガル王、インド副王に親書を送る。
・1552年9月、インド副王からの返書が届く。義鎮使者も同時に帰国
・1553年、義鎮からインド副王へ親書送る
・1559年、ポルトガル国王(ドン・セバスティアン)からの返書が届く(キリスト教保護の礼、更なる保護の願い)
・1560年、義鎮がセバスティアン王へ親書を送る(黄金の蛇が巻きついた鞘のある短刀など)
・1561年、義鎮からインド副王へ親書送る(銀細工の柄のついた長刀、豪華な鎧など)
・1562年、セバスティアン王から返書とどく(宣教師らの保護、義鎮のキリスト教改宗の要請)





<日本最初のローマ留学生>
・「わたし(ザビエル)は僧侶をポルトガルに送って日本人がどれほど才能があり、知性に富み、鋭敏であるかをあなたがた(ポルトガル)に知ってもらいたいと思い、二人の僧侶を連れて帰りたかったのですが、彼らは衣食に困らない、上流階級の人だったので、来ることを望まなかったのです。、、、、そちらにマテオとベルナルドが行きます。ポルトガルやローマに行ってキリスト教世界を見て帰国し、見聞したことを日本人に証言したいと願って、わたしとともに日本からインドに渡航しました。なぜなら彼ら自身の口から証言を聞けば、日本人はきっとわたしたちを大いに信用するでしょう」(1552年ザビエルの手紙より)
・「けれども、この二人の日本人はその目的を果たさなかった。マテオは山口で入信した人で、ゴアの聖パウロ学院で学んだが病気で死んだ。ベルナルドは鹿児島で洗礼をうけた人。二人ともザビエルの「果実」である。ベルナルドは、まだ存命で総会長をやっていたイグナチオ・デ・ロヨラの配慮でイエズス会士となり、7ヶ月ほどローマにいて、帰途コインブラで病死した。
じつはこれが日本最初のローマ留学生であった。目的は果たされなかったとはいえ、このように大友とザビエルの双方が日本人をローマに送って世界の情報を日本に知らせたり、世界に日本人のすぐれているところを知らせたりしようということを考えたのが、早くも1552年(天文21年)のことだったということを忘れてはならない。やがて30年近くのちに、この同じ義鎮と、ヴァリニャーロとがとうとうローマのキリスト教の中心教皇庁めざして、三国の代表使節を送ることになったのは、けっして突然のことではなかった。それは長い試みと願望の、もっとスケールの大きい実現だったのだ。」