2009-01-01から1年間の記事一覧

イエズス会の対日武力導入と行使のあり方

「イエズス会の世界戦略」(高橋裕史著、講談社)より。 「ヴァりニャーロ来日前後の日本イエズス会の武力行使の対象は、主として九州という一地方の在地領主層であり、そのステレオタイプが龍造寺隆信であった。そのため、教会による軍事行為の適用範囲も、…

使節派遣への長い試みと願望

ザビエルと義鎮が運命的な邂逅をなし、その3ヶ月後の1551年11月15日、豊後府内の沖の浜から、ザビエルと二人の日本人従者、義鎮の使者1名をのせたポルトガル船がインドを目指して出帆した。この旅立ちは「日本最初の外交使節」の出発であり、また…

宗麟とザビエルの運命の邂逅(2)

宗麟(義鎮)とザビエルの邂逅を、キリスト教信者の遠藤周作氏に描いてもらうと、「王の挽歌」(遠藤周作著、新潮社)より。・ザビエル;「殿がこの府内にお招きくだされたのは、御領国を交易で富ませるためでございますか。それとも、、、ご自身の心の救い…

府内と大友館

<豊後府内> 今から四百数十年前の戦国時代、大友氏は、大分川河口左岸、現在の元町から長浜町にかけて南北約2.2km、東西約0.7kmの範囲に広がる「府内の町」を作りました。府内の町は、南北に4本、これと交差する東西に5本の道路によって格子状…

宗麟時代の軍団編成

「大分県先哲叢書 大友宗麟 普及版」(芦刈政治文、大分県教育委員会)より。 宗麟は、直接、自分が指揮する旗本軍団を持っています。主として主君を守る武士たちです。人数はあまり多くないようです。大友軍のうちで、もっとも大きな戦力を持っているのは城…

発展と没落の本質的原因

「大分の歴史(4)キリシタン大名大友宗麟」(渡辺澄夫編著、大分合同新聞社)より。 <守護から守護大名へ>親治(注1)と義長(注2)の時代 ・南北朝のころから、守護たちはだんだんと領国づくりにはげむようになり、守護大名として成長しはじめた。大…

大友氏の戦国大名への発展と没落

「大分の歴史(4)キリシタン大名大友宗麟」(渡辺澄夫編著、大分合同新聞社)より。 大友氏の後半200年間は、大友氏が守護大名から戦国大名に上昇する発展期と、日向敗戦から滅亡までの没落期との、2期に分けられる。 最近の学会の動向として、守護大…

大航海時代との接点

「豊後大友氏400年の風景」(加藤貞弘・牧達夫共著、大分古国府歴史文化研究会)より。 「天文12年(1543)、一説には天文11年、種子島にポルトガル商人、中国人商人の王直らが漂着し鉄砲が伝来する。島主、種子島時尭と大友氏は縁戚関係であり、…

宗麟とザビエルの運命の邂逅

「南蛮医アルメイダ」(東野利夫著、柏書房)より。 1.宗麟の青年期までの性格形成を、医師(東野利夫)(注)の目から分析すると「父義鑑も戦国の動乱期をただただ大友家の家運を維持するため、戦さに明け暮れることに精一杯だった。宗麟に対してこまやか…

4人の少年の運命は日本の運命にほかならない

「クアトロ・ラガッツィ〜天正少年使節と世界帝国〜」(若菜みどり著、集英社)より。 一国の歴史がもはや一国史ではとらえることができなくなった。それが大航海時代以降の世界である。なぜなら、近代世界は、15世紀の末からはじまり16世紀をとおして、…

宗麟の戦乱の日々

1530年5月;義鎮誕生 1534年4月(5歳);父義鑑と大内義隆の戦い(勢場ヶ原の戦い) 以下の図は、大内氏滅亡直後の九州の大名群雄割拠の状況 1550年2月〜1554年11月(21〜25歳);二階崩れの変と菊池義武征伐 1553年1月(2…

ヨーロッパへの往復8年4万マイルの旅

使節関係年表 1569年ころ、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら、このころ誕生。 1581年、このころ4少年、有馬セミナリオに入学。 1582年2月、ヴァリニャーノ、伊東マンショら遣欧使節を伴い長崎を出帆。 1583年1…

ペトロ岐部

1587年、ペトロ岐部、豊後国浦辺(今の大分県東国東郡国見町岐部)で、父ロマノ岐部、母マリア波多の子として誕生 1600年、長崎のイエズス会セミナリオに入る。 1615年、長崎よりマカオに渡航する。 1619年、バグダード・ダマスクスを経由し…

豊後キリスト教の広がり

「イエズス会の世界戦略」(高橋裕史著、講談社)によると、 「豊後は1550年代の半ばにはキリスト教の信仰集団が存在し、大友氏の家臣団のなかにも改宗者が見られた。1570年代の初めには5000名の信者をかずえ、1575年の大友親家の改宗、15…

豊後のキリシタン関係年表

1549年、ザビエル来日 1551年、ザビエル、府内に来たり義鎮と会う 1552年、義鎮、ガゴに布教を許す 1556年、日本布教長トルレス、布教地を府内に移す 1563年、フロイス赴任、宗麟に謁す 1565年、宗麟、臼杵に敷地を与え教会を建てさ…

大友宗麟立像

大友宗麟の立像が大分県内のゆかりの地に下記のように8作品建てられている。ほとんどの像は、写真上の像に見られるように、戦国の武将らしく、ひげを生やし、刀を携えており、キリシタン大名として首から十字架のロザリオをかけている。しかし、臼杵市城址…

来日宣教師の活動状況

ザビエル来日(1549年)からバテレン追放令(1587年)までに来日した主要宣教師11名の国籍、生存期間と日本滞在期間を紹介する。「聖フランシスコ・ザビエルの日傘」(平湯晃著、河出書房新社)より。 フランシスコ・ザビエル<スペイン>(1506…

秀吉とバテレンと奴隷売買

1587年7月15日、関白秀吉は九州征伐を終え、凱旋の途中、博多湾姪浜で、南蛮バテレン専用船の「フスタ」を訪問し、船内をくまなく巡察し、またイエズス会副管区長コエリュやフロイスらと親しく懇談した。しかし、24日、突然、秀吉のイエズス会に対…

イエズス会の世界戦略と豊後

「イエズス会の世界戦略」(高橋裕史著、講談社選書メチェ)より。 <イエズス会の世界戦略> 国家(ポルトガル)権力との共生関係(王室布教保護権など)、教団内外の経済力(貿易の従事など)、文化的・科学的戦略にもとづく布教方法の導入(適応主義政策…

特異な戦国都市

戦国の地域王国Bungo Funaiは、中心部にはまさに「洛中洛外図屏風」の世界を体現する館と市街地を、そして、その外郭に同心円状に、「戦国」に対応する山城と直属の武士(家臣団)が取り囲む空間構造だったのである。 宗麟は、新興国人である信長とは異なり…

西洋音楽の発祥地

豊後府内は、キリスト教の日本布教に伴い、バテレン達が西洋音楽を初めて持ち込んだ土地です。 空想安土城御前演奏会 信長が安土城で聞いたであろう中世音楽演奏の再現です。 すこし時代が進みますが、大友宗麟も豊後府内の大友館で同様の演奏を聴いたのでし…

中世音楽の夕べ

1998年大分県臼杵で開かれた「南蛮文化フェスティバル」の「中世音楽の夕べ」のプログラムです。 秀吉、大友宗麟、伊東マンショらが聞いたであろう中世音楽を再現します。Nanban Bunka Festival残念ですが、音源は添付されていません。

府内の破壊と奴隷狩り

「豊後大友氏400年の風景」(加藤貞弘、牧達夫共著、大分古国府歴史文化研究会)より 1586年、豊後府中に乱入した島津軍は放火狼藉の限りを尽くした。万寿寺、円寿寺、金剛宝戒寺、永興寺、大平寺、祇園社、若宮社、春日社、と由緒ある神社、仏閣をは…

南蛮医アルメイダ年譜

戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。 1525年?ポルトガルの首都リスボンに生まれる。ルイス・デ・アルメイダ 154…

大友宗麟関係年表

1172年、大友能直(豊後大友氏初代)相模国大友郷にて出生。 1530年、義鑑(よしあき)の長子、義鎮(よししげ)(21代)(後の宗麟)誕生。 1541年、ポルトガル商人豊後に至る。 1550年、大友二階崩れの変、義鎮家督を継ぐ。 1551年、…

挨拶

15世紀末のヨーロッパでは繁栄するアジアの富を目指し、「大航海時代」が到来した。スペインの援助を受けたコロンブスは西インド諸島に到着。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰経由でインドに到達した。16世紀に入るとスペインは新大陸アメリカを…