豊後キリスト教の広がり

「豊後は1550年代の半ばにはキリスト教の信仰集団が存在し、大友氏の家臣団のなかにも改宗者が見られた。1570年代の初めには5000名の信者をかずえ、1575年の大友親家の改宗、1578年の宗麟の改宗にともなう集団改宗により、信者数も1万人を超えた。」

   ・府内教会が出来た(1553年)ころ;府内中心に600〜700人
   ・育児院が建てられた(1555年)ころ;府内周辺部に広まり1500人
   ・大友宗麟が受洗した(1578年)ころ;地方に広まり2000人
   ・1579年;豊後全体で5000人

  • 「豊後大友氏400年の風景」(加藤貞弘・牧達夫共著、大分古国府歴史文化研究会)によると、

 「天文21年(1552)、カゴらを豊後に派遣する。これ以降豊後府内はキリスト教が広まり、南蛮文化が発展していく。彼らは宗麟のもと、府内に住院や礼拝堂を建て、布教をひろめていく。その後、キリスト教は府内周辺の農村に広まり、程なく高田・敷戸(大分市)にキリシタン信者ができる。地方では、朽網(竹田市直入・久住)に朽網氏家中が受洗したことから、多くの信者が広まったという。さらに、井田(豊後大野市・千歳)や三重にも信者が広まっていった。臼杵の地は、宗麟が臼杵に移住すると、住院や教会が建てられ、豊後におけるキリシタンの中心地のひとつとなる。その後、野津(臼杵市)や由布由布市)、清田(大分市中判田)、などにも信者が広まっていく。清田は、宗麟の娘むこである清田鎮辰の所領であり、領主鎮辰が入信したことから信者がひろまったものであろう。由布についても領主一族の入信が、野津も大友家臣の受礼が各々信者が増えた因であろう。
(中略)豊後はキリスト教の三大教区(豊後、京、西九州)の中心教区とされ、ゴメスの通信によると、天正期の豊後のキリシタンは12000人と報告されている。時が流れ、大友滅亡後の徳川期、キリスト教禁止令によりキリシタンの中心国であった豊後は標的にさらされ、キリシタン迫害が吹き荒れ、多くの処刑者、牢死者が出た。いわゆる「豊後崩れ」である。」


下の写真は、大分市葛木のキリシタン殉教公園内に建てられた「キリシタン殉教の地の碑」(北村西望作)である。