宗麟とザビエルの運命の邂逅

「南蛮医アルメイダ」(東野利夫著、柏書房)より。



1.宗麟の青年期までの性格形成を、医師(東野利夫)(注)の目から分析すると

「父義鑑も戦国の動乱期をただただ大友家の家運を維持するため、戦さに明け暮れることに精一杯だった。宗麟に対してこまやかな父性愛を示した形跡はない。」

「宗麟は母の真の愛情を受けたという形跡が見られない。父義鑑は政略結婚により嫁いできた宗麟の母との夫婦関係がうまくゆかなかった。母は宗麟を出産するとまもなくどこかに去っている。あとに残された幼少の宗麟にとって、その後の性格形成に暗い影を落とすことになったことは容易に想像される」

「宗麟の生涯の年譜などを総合的に検討していくと、出生時から両親の不和のなかで育っており、父義鑑は戦国の世を戦さに明け、戦さに暮れた冷酷非情な父親として、宗麟の無意識の中に暗い陰を落としている。宗麟の性格形成期に受けた不安や恐怖そして強い人間不信が彼の生涯を貫いている。深い孤独の影が彼の行動の裏につきまとっていることを見逃すことはできない」

大友宗麟には出生から青年期までいろいろの人間不信や情緒不安定の要因があった。彼の年譜を通覧し、その行動パターンを分析していくと、躁鬱の情緒変動のはげしさが見て取れる。とくに「二階崩れの変」は青春時代の大きな精神外傷(トラウマ)となり、それ以後、彼は強い人間不信と不安絶望の日々を送ったのである」

下の写真は、「廃墟」と題し、大友宗麟の晩年を表現したとされる像である。日名子実三氏製作で臼杵市城址公園内に建てられている。

2.世紀の聖者ザビエルとの運命の邂逅を再現すると、

「二階崩れの変の翌年、1551年初夏のころ、大型のポルトガル帆船が豊後沖に着いたのである。この帆船到来により、悶々とした日々を送っていた宗麟にとって願ってもない、世紀の聖者フランシスコ・ザビエルとの運命の邂逅が時々刻々と近づいていようとは神のみぞ知ることであった」

「人生の深淵に迷い込み人間不信に陥っていた弱冠21歳の豊後領主、大友宗麟は、どんな心境で、東洋の使徒といわれた高徳の聖者と謁見したのであろうか。


「どこから、そしてなぜあなた方は生命の危険を冒してまで万里の波濤を越えてこの日本にやってこられたのか」とザビエルにたずねたろう。
「主の教えを伝えるため日本に遣わされました」
「主の教え?」「そうです。すべての人の救い主であるイエズス・キリストを信仰することなしには、だれも救われないからです」
宗麟はなおも不可解な様子で、「日本の僧侶たちの教えとはちがうようだが、その主の教えとは、いったい、どんなことか」
通訳フェルナンデス修道士がたどたどしい日本語で教理書のある部分を読みつづける。
宗麟はそれを注意深く聞いた。最後にザビエルは十戒について語ったといわれている。
功利功欲をまったく離れて、神のためそして他者のために生命を賭けている聖者の真摯な姿に生まれて初めて驚きと深い感動、、、大友宗麟目から鱗がおちたのはこの時であったろう。深い人間不信に陥り、不安と絶望の淵から何かしら前途にたしかな灯りを見出し、生きていく力が沸いてくる自覚がやがて宗麟をキリスト教布教許可へと導いていったのである。」

「南蛮医アルメイダ」(東野利夫著、柏書房)より。

(注)1950年九州大学医学部専門部卒業。58年福岡市内に産婦人科を開業。