大友宗麟関係年表

  • 1172年、大友能直(豊後大友氏初代)相模国大友郷にて出生。
  • 1530年、義鑑(よしあき)の長子、義鎮(よししげ)(21代)(後の宗麟)誕生。
  • 1541年、ポルトガル商人豊後に至る。
  • 1550年、大友二階崩れの変、義鎮家督を継ぐ。
  • 1551年、ザビエル、府内に来たり義鎮と会う。インド総督に親書を送る。織田信長家督を継ぐ。
  • 1552年、キリスト教の布教を許す。その後、府内は国内最大の布教拠点となる。
  • 1556年、明使鄭舜巧、来府して義鎮に謁す。
  • 1559年、豊後、豊前筑前筑後肥前、肥後の北九州六カ国の守護職九州探題となる。
  • 1562年、義鎮、出家し宗麟と号し、臼杵丹生島に移る。
  • 1569年、フロイス、信長に謁し、僧日乗と宗論を行う。
  • 1571年、毛利元就死去し、毛利軍九州から全面撤退。
  • 1573年、信長、足利義昭を討つ。足利将軍家滅ぶ。宗麟、家督を嫡子義統に譲る。
  • 1575年、宗麟女エキスバン事件、夫人との不和深刻となる。
  • 1578年、宗麟、洗礼を受け、ドンフランシスコと命名。日向遠征を発動、大軍を投入。務志賀(延岡市無鹿)に教会を建て、理想のキリスト教国の建国をはかるも、島津軍と耳川の戦いで破れ豊後に退却。
  • 1581年、信長、安土城でヴァリニャーノを謁見。
  • 1582年、本能寺の変天正遣欧使節、ヴァリニャーノに伴われて長崎を出発。宗麟、このころから津久見に隠棲。
  • 1585年、秀吉、関白となる。遣欧使節教皇グレゴリオ13世に謁見。
  • 1586年、宗麟、島津を討つため秀吉の援兵を求む。島津軍、日向、肥後より豊後に侵入し、府内は灰燼に帰す。
  • 1587年、秀吉、九州に入り、島津軍を追討。宗麟に日向国を封じるが辞退。バテレン追放令を出す。5月23日、宗麟、津久見で没(享年58)。ペトロ岐部誕生。
  • 1590年、天正遣欧使節帰国。
  • 1593年、秀吉、吉統(義統)より豊後の国を没収。大友氏の豊後統治終わる。
  • 1600年、関が原の合戦。大友氏、石垣原の合戦で家康側に敗れる。
  • 1605年、吉統死去、豊後大友氏400年の歴史が終焉。


  「豊後大友氏400年の風景」(加藤貞弘、牧達夫共著、大分古国府歴史文化研究会)を参考に作成。