豊後大友家盛衰記の連続刊行

最近、赤神諒氏により、豊後大友家の盛衰を題材にし、「大友サーガ」と評判の歴史小説が連続して発刊されています。

大友二階崩れを題材にした「大友二階崩れ」、通称「小原鑑元の乱」を題材にした「大友落月記」、大友の宿将戸次鑑連(後の立花道雪)の凄烈な運命と愛を題材にした「戦神」、柴田治右衛門(後の天徳寺リイノ)の愛と信と義を題材にした「大友の聖将」、大友宗麟重臣吉岡家の嫁の妙の鶴崎城での武闘と悲恋を描いた「妙麟」

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イエズス会の対日武力導入と行使のあり方

イエズス会の世界戦略」(高橋裕史著、講談社)より。


「ヴァりニャーロ来日前後の日本イエズス会武力行使の対象は、主として九州という一地方の在地領主層であり、そのステレオタイプ龍造寺隆信であった。そのため、教会による軍事行為の適用範囲も、長崎や有馬などに限定された「局地的」なものであり、また武器や軍資金なども長崎来航のポルトガル船から調達するか、供給されるかで事足りたものと考えられる。
ところが、こうした地方レベルの、同時に小規模な軍事行使の在り方は、豊臣秀吉の宣教師追放令を一つの契機として大きく転換し、従前のものより先鋭かつアグレッシブなものとなる。これは宣教師追放令によって日本教界全体が存亡の危機に立たされ、在日宣教師たちが「天下の支配者」と位置付けている「ヒデヨシ」を相手とすることであり、換言すれば日本という「国家」との対決を迫られることとなる。
したがって、これまでとは異なり、教会側の軍事規模は大規模となり、武器や軍資金の調達はポルトガル国王に仰がねばならない。また、秀吉による宣教師追放令をうけて日本イエズス会では、準管区長のガスパルコエリョ以下の幹部パードレらが、有馬の高来で協議会を開催し、フィリピンのスペイン関係者に日本へのスペイン兵派遣を要請することが決議された。
これは、日本イエズス会の危機感がいかに深刻なものであったかを表すとともに、在日宣教師たちによる軍事活動の位置づけを、日本教界の救済と存続を基本的かつ不可欠の前提条件としつつも、「日本」対「ポルトガル」という、国家間戦争へと大きく変貌させるにいたったことを示唆しているのではないだろうか。ここに、イエズス会は「ポルトガル・スペインの絶対主義的植民地政策の尖兵」として位置づけられるにいたったといえよう。」



上の肖像画は、巡察師ヴァリニャーロ、下は豊臣秀吉

<要旨>
「1560年代から1570年代、イエズス会は長崎来航のナウ船搭載の火器や硝石などの仲介、調達する程度のかぎりでポルトガルと軍事的「接触」を有していたにすぎなかった。
しかし、長崎の軍事要塞化を分水嶺として、イエズス会ポルトガルの軍事力との連携を強化し、それを自らの日本での軍事活動に「編入」することとなる。そして秀吉の宣教師追放令を契機として、イエズス会は、ポルトガル=スペインの軍事力の「行使者」として、このイベリア両国の軍事力を主体的に利用し、あわせてその日本における再生産をも志向することとなったのである。
日本におけるイエズス会の軍事活動は、段階的にその度合いを深め、ポルトガルやスペインとの軍事関係を強めていった以上、日本での軍事活動の初発から宣教師たちの言動を、広く人口に膾炙されているところの、「イベリア国家の海外征服事業の一翼」に一元化することは、今一度、熟考されるべきであろう」

イエズス会の世界戦略」(高橋裕史著、講談社)より。

<参考>
上は、ポルトガルのフスタ船で、秀吉が博多で乗船しその直後バテレン追放令を出した。下は、スペインのガレオン船で、秀吉は「サン・フェリーぺ号」を没収し、その後の26聖人処刑にいたる。

使節派遣への長い試みと願望

ザビエルと義鎮が運命的な邂逅をなし、その3ヶ月後の1551年11月15日、豊後府内の沖の浜から、ザビエルと二人の日本人従者、義鎮の使者1名をのせたポルトガル船がインドを目指して出帆した。この旅立ちは「日本最初の外交使節」の出発であり、また「日本最初のローマ留学」の出発であった。
以下は「クアトロ・ラガッツイ〜天正少年使節と世界帝国〜」(若桑みどり著、集英社)より。


<日本最初の外交使節
・「ザビエルがインドに帰るとき、義鎮はインド副王に敬意を表し、彼と親交を結ぶために進物を持たせた家臣一人(「植田玄佐」といわれている)をザビエルに同行させた。このときポルトガル王ドン・ジョアン3世にも親書を託した。これは日本の大名がポルトガルの為政者、元首に対して行った最初の外交使節であり、のちに彼がわれらが少年使節を送ることになったその路線の始まりであった。」
・「義鎮はフロイスに向って「1545年ころ一人のポルトガル人が3年間わたしのところに滞在した。この外人に、ポルトガルやインドの状況や政治について、いろいろ聞いて、キリスト教の修道士の規則や行状についてもあれこれ尋ねた、そこで聞いたことがほんとうかどうか確かめるために、ザビエルがインドに帰るときに家臣を使節として随行させたのだ」と義鎮はいう。そうすると、ポルトガル王への親書をいきなり持たせたというよりも、少年時代に外国への興味が培われていて、それがザビエルを得て実現したのだということであろう。」
・「このあと(1552年9月)、キリスト教徒になって帰ってきたこの家臣(植田玄佐、受洗名「ローレンソ・ペレイラ」)から、「ポルトガル人が言っていたことは嘘ではなくむしろ控えめであった」とその盛況を確認している」

<参考><その後の、ポルトガル王・インド副王と義鎮の外交>
・1551年、義鎮、ザビエル離日時に、ポルトガル王、インド副王に親書を送る。
・1552年9月、インド副王からの返書が届く。義鎮使者も同時に帰国
・1553年、義鎮からインド副王へ親書送る
・1559年、ポルトガル国王(ドン・セバスティアン)からの返書が届く(キリスト教保護の礼、更なる保護の願い)
・1560年、義鎮がセバスティアン王へ親書を送る(黄金の蛇が巻きついた鞘のある短刀など)
・1561年、義鎮からインド副王へ親書送る(銀細工の柄のついた長刀、豪華な鎧など)
・1562年、セバスティアン王から返書とどく(宣教師らの保護、義鎮のキリスト教改宗の要請)





<日本最初のローマ留学生>
・「わたし(ザビエル)は僧侶をポルトガルに送って日本人がどれほど才能があり、知性に富み、鋭敏であるかをあなたがた(ポルトガル)に知ってもらいたいと思い、二人の僧侶を連れて帰りたかったのですが、彼らは衣食に困らない、上流階級の人だったので、来ることを望まなかったのです。、、、、そちらにマテオとベルナルドが行きます。ポルトガルやローマに行ってキリスト教世界を見て帰国し、見聞したことを日本人に証言したいと願って、わたしとともに日本からインドに渡航しました。なぜなら彼ら自身の口から証言を聞けば、日本人はきっとわたしたちを大いに信用するでしょう」(1552年ザビエルの手紙より)
・「けれども、この二人の日本人はその目的を果たさなかった。マテオは山口で入信した人で、ゴアの聖パウロ学院で学んだが病気で死んだ。ベルナルドは鹿児島で洗礼をうけた人。二人ともザビエルの「果実」である。ベルナルドは、まだ存命で総会長をやっていたイグナチオ・デ・ロヨラの配慮でイエズス会士となり、7ヶ月ほどローマにいて、帰途コインブラで病死した。
じつはこれが日本最初のローマ留学生であった。目的は果たされなかったとはいえ、このように大友とザビエルの双方が日本人をローマに送って世界の情報を日本に知らせたり、世界に日本人のすぐれているところを知らせたりしようということを考えたのが、早くも1552年(天文21年)のことだったということを忘れてはならない。やがて30年近くのちに、この同じ義鎮と、ヴァリニャーロとがとうとうローマのキリスト教の中心教皇庁めざして、三国の代表使節を送ることになったのは、けっして突然のことではなかった。それは長い試みと願望の、もっとスケールの大きい実現だったのだ。」

宗麟とザビエルの運命の邂逅(2)

宗麟(義鎮)とザビエルの邂逅を、キリスト教信者の遠藤周作氏に描いてもらうと、

「王の挽歌」(遠藤周作著、新潮社)より。

・ザビエル;「殿がこの府内にお招きくだされたのは、御領国を交易で富ませるためでございますか。それとも、、、ご自身の心の救いを求めてでございますか」
・義鎮;「家形というの者はいつ死に直面するこましれぬ。既に山口の大内義隆殿の死は耳に致されたであろう。大内殿は自決の折、無念無想になられたと聞く。しかし正直申せば余はまだそのような境地になれぬ。」
・ザビエル;「案じられますな。死の折はわれらの神にすべてを委ねられませ。いかなる罪ある者も、主はやさしくお受けとりになります。ただし、その男が罪を心から悔いておりますならば、、、。」
・義鎮;「よくわからぬ。尊師の申さる罪とは何を指すのか」
・ザビエル;「罪とは神と人への愛のなきことでございます」
・義鎮;「愛?愛こそ悟りを妨げるものではないか」
・ザビエル;「ではこう申しましょう。人のためにわが身を捨てる。これに勝る愛はないとイエズスは語られました。だからこそイエズスは我々人間のために命を捨てられたのでございます」
・義鎮;「他の者のために命を捨てることが愛か」
・ザビエル;「もとより神の御教えには殺すなかれ、奪るなかれ、偽りを申すなかれ、と幾つかございます。しかし、それにもまして他の人々のため身をつくし、心をつくした者は死に臨んでもはや何も恐れますまい。神にすべてを委ねます」
・義鎮;「大友家の家形であり、九州数国の領主である余には、養わねばならぬ一族、重臣、家来がいる。そのためには、敵とも戦わねばならぬ。敵から奪わねばならぬ。敵を殺しだまさねばならぬ。家形である限り、尊師の教えを守れば、領国を失うことになる」
・ザビエル;「殿、魂の至福を獲ることは、家形を守ることより大事でございます。もし殿が我らの神を御信心になる時は、神は今の殿よりもっとおおきな栄光をお与えになりましょう」
・義鎮;「家形でありながら、、、尊師の申さるる道を歩むことができた者がいるか」
・ザビエル;「ございました。その王は自分の領国に神の国をそのまま作ろうと努めました。その国では民は王を敬いますが、それは王を怖れるゆえではございませぬ。王は民を慈しみ、民は王を慕うておりました」
・義鎮;「その王は戦うたことはないのか」
・ザビエル;「戦うたことはございました。しかし、それは奪うためではなく、侵す者を防ぎ懲らしめるためのみでございました」

「王の挽歌」(遠藤周作著、新潮社)より。

府内と大友館

<豊後府内>
今から四百数十年前の戦国時代、大友氏は、大分川河口左岸、現在の元町から長浜町にかけて南北約2.2km、東西約0.7kmの範囲に広がる「府内の町」を作りました。府内の町は、南北に4本、これと交差する東西に5本の道路によって格子状に区画され、大友館を中心にして万寿寺など多くの寺社が建てられ、道路に沿って40余りの町がありました。また、町の西側には教会や病院、コレジオといった西洋文化の香りをにじませた一画もあり、府内の町を特徴づけるものです。この町は、戦国時代の京都を描いた洛中洛外図屏風の様子によく似ているといわれています。

「よみがえる大友館と南蛮都市」(大分市教育委員会著)より。

<参考>
府内の当時の姿が、発掘調査の結果、はっきりしてきました。以下のサイトで観賞できます。
http://www.pref.oita.jp/10400/neooita/vol44/special.html

<大友館>
府内大友館跡は、国道10号線と県道大分ー臼杵線交わる三叉路交差点の南側一帯(顕徳町3丁目周辺)にある。一辺が200メートルのほぼ正方形の敷地で、土塁と築地塀で囲まれ、大分川寄りの東側には正門、南、北、西側には各々小門があったといわれている。館跡一角の広場は、往時大きな京風の庭園とみられ、京文化と深いかかわりをもった大友氏の趣向が垣間みられる。

「豊後大友氏400年の風景」(加藤貞弘、牧達夫共著、大分古国府歴史文化研究会)より。

<参考>
大友館、万寿寺など豊後府内の主な建築物を、CGで復元した姿(動画)を以下のサイトで観賞できます。
http://restoration.indent.jp/

宗麟時代の軍団編成

大分県先哲叢書 大友宗麟 普及版」(芦刈政治文、大分県教育委員会)より。


 宗麟は、直接、自分が指揮する旗本軍団を持っています。主として主君を守る武士たちです。人数はあまり多くないようです。大友軍のうちで、もっとも大きな戦力を持っているのは城主クラスの家臣です。その数は230人余といわれています。城主たちは、自分の親族や祖先から受け継いだ家来、それに新しく契約によって主従関係を結んだ家来などを引き連れて出陣します。また、城主ほどではありませんが、領国の各地に少数の武士団があります。一揆(いっき)とか衆中(しゅうちゅう)、寄合(よりあい)中と呼ばれるグループです。このような武士団は、人数が少ないから敵と戦うときに不利になる場合があります。ですから、大武士団と合併(同心(どうしん)といいます)して大きな軍団を作ります。このときの大武士団を寄親(よりおや)といい、小武士団を寄子(よりこ)といいます。
 宗麟は旗本軍団、城主軍団、合併軍団をひきいて合戦にのぞんだのです。宗麟が動かすことのできる武士の数はどれくらいでしょうか。毛利軍と戦ったときの大友軍の人数は12万8000人であると毛利方が観測しています。しかし、筑前に出陣したときの軍勢は5万5000人と伝えられていますし、当時、豊後国にいたキリスト教の宣教師は、そのときの軍勢は5万人といっています。のちに行った日向土持征伐の人数は3万人、日向高城の合戦のときは4万3000人とされていますから、宗麟が出馬するときの武士の人数は、おおよそ3万〜5万人くらいでしょう。

大分県先哲叢書 大友宗麟 普及版」(芦刈政治文、大分県教育委員会)より。

発展と没落の本質的原因

「大分の歴史(4)キリシタン大名大友宗麟」(渡辺澄夫編著、大分合同新聞社)より。


<守護から守護大名へ>親治(注1)と義長(注2)の時代
南北朝のころから、守護たちはだんだんと領国づくりにはげむようになり、守護大名として成長しはじめた。大友氏の場合も、もちろん例外ではなかった。嫡子単独相続にきりかえ、豊後に所領を集め、守護代などを設置するなどして、領国経営にとりくんでいった。
・親治のころ領国づくりは一段と進んだ。そして義長は、こうした父の築いた土台を足場に、いっそう領国づくりにはげむ。長い間、低迷の域を抜け切れなかった大友氏は、この時期から徐々に発展の度合いを増していった。ようやく胸のつかえがとれたように。
・義長の時期、領国支配はどう進んだのだろう。まず第一点は、「間別銭」の徴収。賀来社造替の臨時特別税のことである。注目されるのは、これらが、貴族や寺社が支配する個々別々の荘園という枠にとらわれず、「一国全体」に課されるようになった点。すなわち、大名が自分の支配地域にある荘園の独立性を認めず、一円的に領国を支配していこうとする動きなのである。これこそ大名による領国形成の動きにほかならない。こんな傾向は守護大名の段階からみられる。大友氏の場合も、まったくそのとおりである。第二点は、政治のしくみを整備したという点。領国統治を前進させるためには、これはぜひ取り組まねばならないことであった。「方分」という職制が作られたのはこのためである。義長の貴重なホームランとでもいっておこう。方分は、領国内における方面別の政務担当官のことをいう。大友氏は、方分を通して間接的に各方面の軍隊を指揮できるようになった。いま一つ注目されるのに「政所」というのがある。政所はもともと荘園の事務を掌る役所としておかれた。大友氏は、それに下地打渡しなどの役目をもたせ、領国統治の機能を負わせた。また、次の義鑑の時代になると「検使」「欠所奉行」などが置かれ、領国統治の充実が期された。
守護大名から戦国大名へ>義鑑(注3)と義鎮(注4)の時代
・それでは、こうして登場した戦国大名たちが、新しい地域的封建権力者たりえたのは、どんな条件があったからだろうか。まず大名の権力をささえた家臣団の編成状況からみてみよう。戦国大名は、領国の武士たちに所領を宛がい、そこの領主であることを保障した。これで、主君と家臣の関係ができた。反逆したりすると所領をとりあげて別の家臣にわりあてた。ここにはもう、昔のような「血の結びつき」による主従関係は薄れてきた。大名の力による支配が強くみられるようになった。家来たちは、血縁、親疎、服従した時期などから自ずと区別された。大友氏の場合も、大友一族や庶家および「下り衆」という鎌倉からついてきた譜代家臣たちは「同紋衆」と呼ばれる。古くから豊後にいた有力武士たちは「国衆」と呼ばれる。このほか「新参衆」という中小家臣がいた。後の二者を「他紋衆」という。
守護大名はしっかりとした土地掌握の手段をもたなかった。だから面積や生産力の増減があっても、十分にその実態をつかむことができなかった。戦国大名は、そんな不徹底な土地支配、農民支配のあり方を根本的に改めようとした。多くの大名が検地を実施しているのはこのためである。大名たちは領国経営の基礎を土地と農民の支配においた。大友氏などの場合は、「名主職」を大名側が直接握って、これを家臣に与えている。検地それ自体とはちがう。大友氏が後北条氏や武田氏のように大規模な検地をしていないのはなぜか。いや、していないというよりも、できなかったといった方がいいかもしれない。
<大友氏の戦国大名としての弱点>
・大友の場合、守護に系譜するという古さから、どうしても抜けきれない弱点があった。その一つは、権力集中の弱さである。家臣団に対する統制力はある程度進んだものの、重臣級の家臣の反逆という危険にいつもつきまとわれた。しっかりした軍事基盤に欠け、中小の在地武士たちにおんぶしているという弱さがあった。そんな弱点をカバーしようとして、大友氏は幕府に頼っていた。義長が「条々」の冒頭で「幕府を大事にせよ」と諭したのはこのためであった。義鑑や義鎮がことのほか九州探題守護職を望んだのは、それがたとえ名目で実体をともなわないものにしろ、そうした古さに頼ろうとした大友氏の姿勢をよく示している。
・権力基盤が弱かったため、在地支配も不完全。検地もほとんど実施できなかった。そればかりか、荘園のしくみが豊後では最後まで残った。

「大分の歴史(4)キリシタン大名大友宗麟」(渡辺澄夫編著、大分合同新聞社)より。


(注1)親治(ちかはる);第18代当主、1461生〜1524没
(注2)義長(よしなが);第19代当主、1478生〜1518没
(注3)義鑑(よしあき);第20代当主、1502生〜1550没
(注4)義鎮(よししげ)(のちの宗麟);第21代当主、1530生〜1587没


下は大友氏の杏葉の紋